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杉元 年表

明治の中頃、東京飯田橋・鎌倉河岸に博善、渡辺などの葬儀屋があった。博善は火葬場を運営していたが葬儀部門にいた杉元セイゴロウが独立して神楽坂に「杉元」をつくった。そこに松下兼次郎(明治8年生まれ)がいた。
   
1902年
(明治35年)
東京・本郷に葬儀社「杉元」の支店ができ、松下兼次郎がこの店を任せられる。当時「杉元」の支店は市谷見附、本郷、牛込弁天町の3軒あったが、昭和初期から戦中の大空襲、戦後の混乱等で廃業し、「杉元」は本郷の当店だけになった。「杉元」を松下姓が継いでいるのは以上のような来歴による。
   
1904年
(明治37年)
兼次郎の長男 勝太郎生まれる。この頃、葬儀社は輿屋と呼ばれていた。桶屋、早桶ともいった。今のような寝棺ではなく座棺で、棺は桶屋が作っていた。葬儀を頼まれるのは、店まで歩いて来られる範囲で評判が第一。当時本郷区には21軒の葬儀屋があって杉元は新店だったが、本店がしっかりしていたことや、兼次郎がまじめで堅かったことなどが信用を得て、この地に根付いていった。
   
1918年
(大正7年)
この年に大流行したスペイン風邪で初代 松下兼次郎没。長男 勝太郎14歳。大倉商業から、神田一ツ橋に東京外国語学校のビジネスマンを対象にした短期速成の夜学があって通ったが、卒業するには至らず家業に専念する。当時、葬儀屋は草鞋を履いて輿の跡に付いて行った。勝太郎は草鞋の履き方も知らなかった。そこから寺、神社、教会などに葬儀のしきたり等を聞き、神田界隈の本屋に出入り、専門書を読み、学者の紹介を受け、葬儀についての造詣を深めていった。
1926(大正15)年 駿河台に日大病院が開設されて「杉元」は葬儀を任せられていたが、日大・板橋病院ができ(1935・昭和10年)、当時、棺を運ぶのはリヤカーで、本郷から板橋では緊急の用には応じられず、板橋にも店を構え、業界ではここを「板杉」(板橋の杉元)と呼んでいた。
   
1959年
(昭和34年)
7月「株式会社杉元」となり、松下勝太郎が代表取締役に就任する。
勝太郎の持病喘息などもあり、長男健一が社業を手伝うようになる。
1976(昭和51)年 東京都教職員互助会三楽病院に設立(1933・昭和8年)当初より葬儀を任せられており、その関係等から東京都教職員互助会及び東京都職員互助会(現東京都人材支援事業団)指定の葬儀社となっていた。健一は私立学校教職員共済組合を対象にした全国規模の葬儀社グループ作りを発案、全国の葬儀社を回り、昭和51年に私立学校教職員組合(現日本私立学校振興・共済事業団)指定の全国組織を作った。
   
1980年
(昭和55年)
勝太郎長年の念願であるエフイー ベンダン著『死の習慣』を翻訳・出版する。
この頃では社業の現場は長男健一(専務取締役)が仕切るようになる。
   

1988年

(昭和63年)

旧社屋を近代的な新社屋に建替え、1階を相談コーナー「杉元サロン」として顧客への窓口を開く。また、「杉元サロンニュース」の発行、旧日本信販と結んだ葬儀費用のローンシステム、高齢者の安心システム「セダークラブ」の立ち上げなど、葬儀業界に新風を吹き込む活動を展開。
   
1991年
(平成3年)
勝太郎会長に就任(平成7年没)。長男 松下健一が代表取締役となる。本格的な葬儀の生前契約のはしりとなった「りすシステム」の立ち上げや、生活共同組合コープが葬儀業務を手がけるようになった際の実務的相談役等として尽力。また、消費者のより高いニーズに応えられる、経験と信用第一の葬儀社グループ“21C葬儀社グループ”の中心会員としても活動する。
   
2008年
(平成20年)
松下健一が会長に、(義弟)池田弘が代表取締役社長に就任
   
2020年
(令和2年)
会長松下健一、令和2年4月没